佐藤哲夫さんが亡くなったとの訃報に接し、線香をあげさせていただきに、10年ぶりくらいで、御自宅にお邪魔しました。奥様と少しお話をさせて戴きました。病気でラッパが持てなくなって「今度は軽い楽器を買うんだ」と最後まで仰っていたそうで。ジャズとトランペットの事しか考えていなかったような生粋のミュージシャンでした。
もう35年も前のことです。私は、大学に入って、ジャズ研に所属してみたものの、自己流でやってきた奏法では、行き詰まりを感じて、レッスンに通おうと決意したのです。当時はインターネットも無く、先生を探すのに、ジャズ喫茶やライブハウスのマスターに話を聞きにまわりました。ファースト、ダウンビート、リトルジョン、ドルフィーなどなど、横浜のどこの店で誰に聞いても「ラッパならテッちゃんに習いなよ」と言われたのです。即電話をしてレッスンに行くようになりました。週イチで御自宅のスタジオに通いました。
先生は、当時、流行っていたトランペット奏法のマジオシステムの第一人者でした。聞いたことのないようなペダルCに、びっくりしたものです。くる日もくる日も基礎練習でした。ジャズのアドリブとかジャズ理論を、教えてもらったことはありません。それより今でも印象に残っているのは「俺はトランペットを教えているんじゃないぞ。お前らに人生を教えているんだ」って言葉。この話をしていた時、お酒飲んでいたのかな?w
先生のライブにくっついて行き、ジャムセッションでも、先生の紹介で諸先輩方と知り合いになったり、仕事を始めるようになりました。忙しさを理由に、疎遠になってしまいましたが、たまに電話がかかってきて、飲みに連れて行ってもらったりしました。私が三原綱木とニューブリードに入団したときは「お前が、こんなになるとは、思ってもみなかったな!」と笑っていただけました。先生はテレビの歌謡番組の仕事が嫌で、ブルーコーツを秒で退団していましたのですよ。ジャズが好きでしたねぇ。
50歳そこそこの若さで、脳出血で半身不随となっても、トランペットが吹けるまで鬼気迫るリハビリをして、見事な根性の持ち主でした。絵も描いていましたね。奥様も、一つの事に集中すると、諦めない人でしたと仰っていました。
4年ほど前に、吉田町のジャズストリートで会った時、ニコニコと、まだ6歳になったばかりの私の息子の頭を撫でてくれたり。「これからファーストのジャムセッションに行く」と言って別れたのが最後でした。お元気になられて良かったなぁと思っていたのですが、この時期に末期癌が見つかったそうです。
「ジャズをやってきて悔いはないよ」
奥様の話では、そんなふうに話をしていたそうです。
自分は、死に際に、この言葉を吐けるのだろうか。不出来な弟子ですが、自分なりに精進致します。有難う御座いました。お疲れ様でした。合掌。
ラッパの師匠から久々に電話。留守電に「最近、会ってないからさぁ」とそれだけ。最近ジャムセッションに行けていないので。まだ寒いので暖かくなった一杯やりに行こうかと思っています。子供の顔も見せたいしね。いつまでも心配かけてすみません。 http://t.co/xbrM4ZoTP3
— deep (@deepwitter) February 24, 2013